2008年12月31日
最後の仕事
確か去年もそうだったような・・・
朝から雪が舞っております。
洗車したクルマのタイヤをスタッドレスタイヤに換装しました。
これで雪が積もっても年越しを「十文字原、光の詩オールナイトジャズセッション」で過ごすことが出来ます。
今年もいろんな事があり、特にじゃん公では沢山の人達と出会う事ができ、公私共に充実した一年でした。
まだ真っ白な年賀状と昨日と何も変わってない仕事部屋および各所が心残りではありますが、過ぎ行く一年を振り返りたいと思います。
やぎーず達も寒風の下元気です、わんこーず達も元気です。
皆様の新年が明るい年になることを願いまして。
今年一年ありがとうございました m(_ノ_)m
エー来年の目標は、
「じゃん公スキー部創立」でございます。
朝から雪が舞っております。
洗車したクルマのタイヤをスタッドレスタイヤに換装しました。
これで雪が積もっても年越しを「十文字原、光の詩オールナイトジャズセッション」で過ごすことが出来ます。
今年もいろんな事があり、特にじゃん公では沢山の人達と出会う事ができ、公私共に充実した一年でした。
まだ真っ白な年賀状と昨日と何も変わってない仕事部屋および各所が心残りではありますが、過ぎ行く一年を振り返りたいと思います。
やぎーず達も寒風の下元気です、わんこーず達も元気です。
皆様の新年が明るい年になることを願いまして。
今年一年ありがとうございました m(_ノ_)m
エー来年の目標は、
「じゃん公スキー部創立」でございます。
2008年12月30日
2ゾロ
年の瀬についに揃いました(^-^)v

前津江の仕事で仕事納め、その帰りに湯布院町内にて・・

私が新車から乗りつづけた距離ではありませんが、このうち1/4は私と供に走ってきました。
長野オリンピックからですので11年で到達です。
よく走ったね、これからも頑張って走ってね。

前津江の仕事で仕事納め、その帰りに湯布院町内にて・・

私が新車から乗りつづけた距離ではありませんが、このうち1/4は私と供に走ってきました。
長野オリンピックからですので11年で到達です。
よく走ったね、これからも頑張って走ってね。
2008年12月29日
今年もあと2日ですね
下関突貫工事も昨日で完成
本日は下関行きの予定が無くなったー、やたー
と思いながらも助っ人さんは手配済み・・・
まぁ助っ人賃の支払いもあるし、仕事は
山ほどある
ので来て頂きました。
でやったことは
薪割り
いやーしんけん薪の在庫が間に合わなくって・・・
忙しくて薪割りする間もなく、やはり助っ人を頼んでいた隣の地主の爺様に玉切りまではやってもらってたのですが、割ってなくて・・・割って乾かさないといつまでも乾かないのです。
流石に80歳近い爺様に割ってもらうのは無理だし・・・
そいえばゆーすけ君に頼もうと思っていたけど忘れてた。
朝から助っ人と二人でしんけん割りました。
軽トラ3台分以上は割ったんじゃないかなー?

で夕方に原木調達トラック2台分(爆)
薪割りのバイト募集いたします(しんけん)
時給700円位で・・
天気予報では大晦日から寒波で雪と言ってます。
昨年の年越しは「十文字原・光の詩」で雪のなか年越ライブでした、今年も紅白終わる前には光の詩かな?
で1日も雪なら大人しく年賀状でも書きましょうかね?
もしくは大掃除(年内に終わる訳ナシ・・・)
大晦日は今シーズン初のスタッドレスタイヤ換装かなー?
本日は下関行きの予定が無くなったー、やたー
と思いながらも助っ人さんは手配済み・・・
まぁ助っ人賃の支払いもあるし、仕事は
山ほどある
ので来て頂きました。
でやったことは
薪割り
いやーしんけん薪の在庫が間に合わなくって・・・
忙しくて薪割りする間もなく、やはり助っ人を頼んでいた隣の地主の爺様に玉切りまではやってもらってたのですが、割ってなくて・・・割って乾かさないといつまでも乾かないのです。
流石に80歳近い爺様に割ってもらうのは無理だし・・・
そいえばゆーすけ君に頼もうと思っていたけど忘れてた。
朝から助っ人と二人でしんけん割りました。
軽トラ3台分以上は割ったんじゃないかなー?

で夕方に原木調達トラック2台分(爆)
薪割りのバイト募集いたします(しんけん)
時給700円位で・・
天気予報では大晦日から寒波で雪と言ってます。
昨年の年越しは「十文字原・光の詩」で雪のなか年越ライブでした、今年も紅白終わる前には光の詩かな?
で1日も雪なら大人しく年賀状でも書きましょうかね?
もしくは大掃除(年内に終わる訳ナシ・・・)
大晦日は今シーズン初のスタッドレスタイヤ換装かなー?
2008年12月29日
声だけ聞こえると・・・
今年のヤマとも言えるガレージ&倉庫建ての仕事が片付きました。
なんか肩の荷がどっと下りたー(^o^)/
でもまだあと2日スケジュールがあるので仕事やっつけないといけません。
で「ようつべ」で懐かしいBuck-TickだのパーソンズだののPV見ながらじゃん公書いております。
階下ではスカパーで「銀河鉄道999」
うーん漏れ聞えてくる声だけ聞いていると・・・
悟空なのか鉄郎なのかワカラン
さてさて明日に備えて寝ますかね。
なんか肩の荷がどっと下りたー(^o^)/
でもまだあと2日スケジュールがあるので仕事やっつけないといけません。
で「ようつべ」で懐かしいBuck-TickだのパーソンズだののPV見ながらじゃん公書いております。
階下ではスカパーで「銀河鉄道999」
うーん漏れ聞えてくる声だけ聞いていると・・・
悟空なのか鉄郎なのかワカラン
さてさて明日に備えて寝ますかね。
2008年12月27日
遂に2桁だー

別府か大分では96円というスタンドもあるみたいですねー
いやーガソリン安くなりました、遂に99円です。
ここは杵築のナフコ横のノンブランドのスタンドです。
ガソリンのレギュラーと軽油、灯油しかない店で現金オンリーですが安さは地域no1ですね。
いつかははじける金融バブル、その結果史上最大の高騰を見せた原油相場が崩壊
円高も手伝って坂を転がり落ちる、というよりほぼ垂直落下に近いんじゃないの?
何はともあれ生活にガソリンは必需品な山暮らしです。
いやーでもガソリン価格が2桁って何年ぶりなんやろー?
でもその影で軽油価格がガソリンと大差なくなっているのも心配ですね。
個人的にはディーゼルターボとか好きなのに・・・これじゃあディーゼルチョイスする意味が無い
なんぼ需要と供給関係だからといってもねぇ・・・
2008年12月27日
勘違い
mixiニュースから拾ったこんなネタ
大人になってからもしていた勘違い・・・
http://escala.jp/jyoshi/2008/12/post_272.html
脱サラの勘違いは笑えました。
これを機にサラ金つまりサラリーマン金融とは何ぞや?って勉強して欲しいですね。
ついでにリボ払いとかの仕組みも・・
確かに「押印」をおしいん・・・
「稟議書」とか読めない人少なくないし・・・そもそも稟議って何?という次元かも
押印は書くときには使うけど、言葉では捺印っていうのが一般的なんじゃないかな?
たいくかん・・・まぁわからんでも無いけど、体位はタイじゃなくてタイイじゃろーが
とエロネタにすれば分かりやすいのかも。体育はタイクじゃなくてタイイク、鯛逝く?
つまんないですね、スミマセン。
食間、これは多いでしょう?
わたしん場合、大分弁で何かを言われて意味不明で白黒ってことは割とあります。
今年だって「しらしんけん」(by県体)で意味わからなくて聞きましたもんね。
しら・しんけん・・・しらしん・けん、かと最初は思っちゃいました。
分らない事はなんでんスグに聞いてしまうタチなのですぐに教えてもらい「へぇーへぇーへぇー」でした。
そう言えばカボスタイムの大分弁講座ってまだやっちょんの?
大人になってからもしていた勘違い・・・
http://escala.jp/jyoshi/2008/12/post_272.html
脱サラの勘違いは笑えました。
これを機にサラ金つまりサラリーマン金融とは何ぞや?って勉強して欲しいですね。
ついでにリボ払いとかの仕組みも・・
確かに「押印」をおしいん・・・
「稟議書」とか読めない人少なくないし・・・そもそも稟議って何?という次元かも
押印は書くときには使うけど、言葉では捺印っていうのが一般的なんじゃないかな?
たいくかん・・・まぁわからんでも無いけど、体位はタイじゃなくてタイイじゃろーが
とエロネタにすれば分かりやすいのかも。体育はタイクじゃなくてタイイク、鯛逝く?
つまんないですね、スミマセン。
食間、これは多いでしょう?
わたしん場合、大分弁で何かを言われて意味不明で白黒ってことは割とあります。
今年だって「しらしんけん」(by県体)で意味わからなくて聞きましたもんね。
しら・しんけん・・・しらしん・けん、かと最初は思っちゃいました。
分らない事はなんでんスグに聞いてしまうタチなのですぐに教えてもらい「へぇーへぇーへぇー」でした。
そう言えばカボスタイムの大分弁講座ってまだやっちょんの?
2008年12月27日
クリスマス しつこい?
クリスマスはサンタさん?でした。
イブの24日にはソリに大量の薪を積んで薪を待ちこがれている大分某所へ・・・
いやー久々にソリもフル稼働ですわ。
帰ると既に真っ暗ですがソリには何故か樹木が積み込まれていたのでした。
で明けて25日
今日はまたまた佐伯の某所にサンタさん、助っ人サンタのソリ(軽トラとも言う)に載せたのは140kgもある鉄箱のプレゼント、いやー実に体の暖まるプレゼントですね、ついでに息も上がります。
行きは高速でトナカイ全開で、帰りは下道をのんびりと。
道すがら探し物、ハンズマン、ナフコ、ヒロセと廻ってお目当ては発見できず、残念。
別府の木こりという有名なケーキ屋の前を通りすがら、飛び込みでケーキなんざ買ってみました。
仕事着の汚い格好でケーキ屋さんに入るのはちょっと顰蹙だったけど、今買わないとケーキゲットのチャンスはナシですから。
カミさんから電話で「仕事でテンパッタからご飯作る気力が無い」との事で久々にピザのテイクアウト
日出のピザカリフォルニア、配達エリアは豊岡全域とあるが南畑は無い、ウチって住所は豊岡なんだよね・・・
豊岡ってエンピツの先みたいに尖って山を登ってて、ウチは芯の先もいいところ。だって家の後ろ200m位に杵築との境界だし、道路出て200m位で南畑になる・・この山で豊岡表示はウチだけ。
そんなウチにもピザ屋は配達してくれるのだろうか?
一度電話してみたいものです。
脱線しましたがクリスマスの夜はピザと木こりのケーキでした。
イブの24日にはソリに大量の薪を積んで薪を待ちこがれている大分某所へ・・・
いやー久々にソリもフル稼働ですわ。
帰ると既に真っ暗ですがソリには何故か樹木が積み込まれていたのでした。
で明けて25日
今日はまたまた佐伯の某所にサンタさん、助っ人サンタのソリ(軽トラとも言う)に載せたのは140kgもある鉄箱のプレゼント、いやー実に体の暖まるプレゼントですね、ついでに息も上がります。
行きは高速でトナカイ全開で、帰りは下道をのんびりと。
道すがら探し物、ハンズマン、ナフコ、ヒロセと廻ってお目当ては発見できず、残念。
別府の木こりという有名なケーキ屋の前を通りすがら、飛び込みでケーキなんざ買ってみました。
仕事着の汚い格好でケーキ屋さんに入るのはちょっと顰蹙だったけど、今買わないとケーキゲットのチャンスはナシですから。
カミさんから電話で「仕事でテンパッタからご飯作る気力が無い」との事で久々にピザのテイクアウト
日出のピザカリフォルニア、配達エリアは豊岡全域とあるが南畑は無い、ウチって住所は豊岡なんだよね・・・
豊岡ってエンピツの先みたいに尖って山を登ってて、ウチは芯の先もいいところ。だって家の後ろ200m位に杵築との境界だし、道路出て200m位で南畑になる・・この山で豊岡表示はウチだけ。
そんなウチにもピザ屋は配達してくれるのだろうか?
一度電話してみたいものです。
脱線しましたがクリスマスの夜はピザと木こりのケーキでした。
2008年12月26日
クリスマスのおもひで
今日はクリスマスでしたね。
僕はクリスチャンではありません、一応は無宗教者ですが何か宗教を選べと強制されればプロテスタントかなぁ?
これは仕事のブライダル関係の影響と、子供の頃に通っていた教会(っても通っていた幼稚園)と爺さん(以前プログに書いたMBUのキャラハン邸)の影響かナァ?
実家は愛媛西部では典型的なミカン農家だ。
ウチはどちらかと言われれば規模が大きい方だった、父は勢いにまかせてたくさんのミカンを栽培していた。ミカン、甘夏、伊予柑、雑柑いろいろ・・・
ミカンの中でも温州極早生は9月末-10月初旬から収穫が始まる。
そして次に温州ミカンと晩熟ミカンである南柑20号(普通のミカン)なんかの収穫と続く
そして11月位になると甘夏と伊予柑の収穫が始まる。
当時はまだデコポンだのキヨミだのの新しい品種は開発されておらず、専ら「夏みかん(甘夏)」「サンフルーツ(甘夏の改良種)」と「伊予柑」・「宮内伊予柑」の4種が看板だった。
これらは概ね年内に収穫して倉庫で保管して熟成させ、2-3月に出荷するのである。
大体毎年クリスマスの時期には寒波がやって来る。
大分と同じく対岸の愛媛は関門海峡から吹き込む雪の影響で積雪するのだ。
雪が積もると木に実っているミカンは内部が凍結してしまい味が悪くなり商品価値がなくなってしまう、だから甘夏や伊予柑の収穫は寒波との戦いでもある。
なにせ1年の集大成がゴミになるのかお金にばけるのかの瀬戸際だからだ。
この時期は人を雇って収穫するので(雇わないととても間に合わないのだ)朝早く父は人夫さんを迎えに行く、人夫さんはもっと山奥のタバコ農家とかの人たちで大体皆どこの農家へ手伝いに行くのか決まっていた。
日のあるうちはとにかく収穫、とにかく取れるだけ取る、そしてコンテナに入れて道端に積み上げておくのだ。5時になって人夫さん達を送り帰ってきてから今度は山にある収穫されたミカンを取りに行くのだ。
離合も困難な狭い道を2トントラックで登り、大体荷台にコンテナ5段積で満載して持ち帰る。
多い時は一日にトラック4車、500箱位収穫しているのだ。
伊予柑や甘夏は長期保管するので薬に浸けてからの保管となる、つまり山から持ち帰った奴を農薬の入った桶にドブ漬けし、それを倉庫へ積み上げるという作業が夕方以降に待っている。
日が落ちて寒風吹きすさむ中で薬品の溶かされた水仕事である。
小学校高学年になる頃には手伝いもしていたが中坊でも半人前の仕事しか出来なかった。
農薬ドブ漬けされたコンテナは20-30キロの重さである、それを数百右から左へ・・・
そのうちに前掛けも意味無く服も濡れてしまい、熱気だけで寒さに対抗して仕事をする、そんな感じだった。遅い日には23時頃まで倉庫でトラックが走り回っているという年もあった。
収穫した分を持ち帰りきれない時もあった。
そしてとにかく寒波の来襲を恐れ、寒波が来る前に1つでも多くのミカンを倉庫へ、そんな感じだった。
公務員として働いていた母も、帰宅してからは倉庫作業の手伝いである。母は仕事から帰ると僕と姉のご飯を作って倉庫へ行く。僕らは二人だけでご飯を食べて風呂に入って寝る、そんな生活だった。
子供心に親を気遣ったのだろう、八時になると暖かい紅茶をいれて倉庫へ持っていくと両親は喜んでくれた事は覚えている。
クリスマスは親戚から貰うアイスケーキと、母方の祖母が毎年送ってくれたチョコレートが唯一の楽しみだった、両親は倉庫で作業しているのを知っていた為か、余りクリスマスを祝った記憶は無い。
出来合いのチキンを温めて申し訳なさそうに僕達に食べさせてくれた思い出がある位だ。
クリスマスプレゼントというのも小学生の頃に何度か貰った程度でカバンを貰って嬉しかった記憶がある位だ。
とにかく12月=農繁期のピークであり、中学高校でも部活から帰ってから作業を手伝う、そんな毎年のクリスマスだった。
地域全体がどこもそんな感じだったから余りクリスマスクリスマスした事がなかったように思う。
「オレたちゃクリスチャンじゃねーんだから」
まさにそんな感じだった。
でも日曜学校に通っていたからクリスマスが何であるのかは知っていたけど・・・
高校を出て都会へ行くとクリスマスの過ごし方は激変した。
世間がなんどこんなに浮かれているのかも不思議だった。
でもそんな風潮に慣れてしまっていた。
田舎では子供の居なくなった家で毎年繰り返される農繁期を過ごして居たのだろう。
でもいつの頃からか父一人での農作業にも限界があり、農園の規模は自然に縮小されていった。
学生の頃は学業でクリスマスどころではなかった。一応寮では小さいケーキは出されたが・・
社会人なって人並みのクリスマスが送れるようになっていたはずなのだが・・・
思えば現場で仕事していた事が多く、ホテルの部屋はシングルルームをにわかダブルルームに改装したり・・・
「今日はホテル全体が揺れるんじゃねーか?」
そんな軽口とチェックインに訪れるカップルを陰口をフロントの裏でヒソヒソやっていたものである。
宴会事務所に居た頃は、クリスマスだからといってベーカー(ホテルの中でパンを焼いたりケーキを作ったりするパティシェの居る部署)からケーキが配られる。
でも会社には表立ってナイショの振る舞いだからケーキもブライダル用のバカデカイ50人前とかの奴だ、それをサービスの黒服が来てチャッチャと切り分けてホテルのあちこちに配るのだ。
当然全部が綺麗に無くなる訳でもなく・・・
「もう食えねーよ」「気持ち悪いよ」
ショートケーキ換算で5-6個も食べればもう十分なのだ。
僕はクリスチャンではありません、一応は無宗教者ですが何か宗教を選べと強制されればプロテスタントかなぁ?
これは仕事のブライダル関係の影響と、子供の頃に通っていた教会(っても通っていた幼稚園)と爺さん(以前プログに書いたMBUのキャラハン邸)の影響かナァ?
実家は愛媛西部では典型的なミカン農家だ。
ウチはどちらかと言われれば規模が大きい方だった、父は勢いにまかせてたくさんのミカンを栽培していた。ミカン、甘夏、伊予柑、雑柑いろいろ・・・
ミカンの中でも温州極早生は9月末-10月初旬から収穫が始まる。
そして次に温州ミカンと晩熟ミカンである南柑20号(普通のミカン)なんかの収穫と続く
そして11月位になると甘夏と伊予柑の収穫が始まる。
当時はまだデコポンだのキヨミだのの新しい品種は開発されておらず、専ら「夏みかん(甘夏)」「サンフルーツ(甘夏の改良種)」と「伊予柑」・「宮内伊予柑」の4種が看板だった。
これらは概ね年内に収穫して倉庫で保管して熟成させ、2-3月に出荷するのである。
大体毎年クリスマスの時期には寒波がやって来る。
大分と同じく対岸の愛媛は関門海峡から吹き込む雪の影響で積雪するのだ。
雪が積もると木に実っているミカンは内部が凍結してしまい味が悪くなり商品価値がなくなってしまう、だから甘夏や伊予柑の収穫は寒波との戦いでもある。
なにせ1年の集大成がゴミになるのかお金にばけるのかの瀬戸際だからだ。
この時期は人を雇って収穫するので(雇わないととても間に合わないのだ)朝早く父は人夫さんを迎えに行く、人夫さんはもっと山奥のタバコ農家とかの人たちで大体皆どこの農家へ手伝いに行くのか決まっていた。
日のあるうちはとにかく収穫、とにかく取れるだけ取る、そしてコンテナに入れて道端に積み上げておくのだ。5時になって人夫さん達を送り帰ってきてから今度は山にある収穫されたミカンを取りに行くのだ。
離合も困難な狭い道を2トントラックで登り、大体荷台にコンテナ5段積で満載して持ち帰る。
多い時は一日にトラック4車、500箱位収穫しているのだ。
伊予柑や甘夏は長期保管するので薬に浸けてからの保管となる、つまり山から持ち帰った奴を農薬の入った桶にドブ漬けし、それを倉庫へ積み上げるという作業が夕方以降に待っている。
日が落ちて寒風吹きすさむ中で薬品の溶かされた水仕事である。
小学校高学年になる頃には手伝いもしていたが中坊でも半人前の仕事しか出来なかった。
農薬ドブ漬けされたコンテナは20-30キロの重さである、それを数百右から左へ・・・
そのうちに前掛けも意味無く服も濡れてしまい、熱気だけで寒さに対抗して仕事をする、そんな感じだった。遅い日には23時頃まで倉庫でトラックが走り回っているという年もあった。
収穫した分を持ち帰りきれない時もあった。
そしてとにかく寒波の来襲を恐れ、寒波が来る前に1つでも多くのミカンを倉庫へ、そんな感じだった。
公務員として働いていた母も、帰宅してからは倉庫作業の手伝いである。母は仕事から帰ると僕と姉のご飯を作って倉庫へ行く。僕らは二人だけでご飯を食べて風呂に入って寝る、そんな生活だった。
子供心に親を気遣ったのだろう、八時になると暖かい紅茶をいれて倉庫へ持っていくと両親は喜んでくれた事は覚えている。
クリスマスは親戚から貰うアイスケーキと、母方の祖母が毎年送ってくれたチョコレートが唯一の楽しみだった、両親は倉庫で作業しているのを知っていた為か、余りクリスマスを祝った記憶は無い。
出来合いのチキンを温めて申し訳なさそうに僕達に食べさせてくれた思い出がある位だ。
クリスマスプレゼントというのも小学生の頃に何度か貰った程度でカバンを貰って嬉しかった記憶がある位だ。
とにかく12月=農繁期のピークであり、中学高校でも部活から帰ってから作業を手伝う、そんな毎年のクリスマスだった。
地域全体がどこもそんな感じだったから余りクリスマスクリスマスした事がなかったように思う。
「オレたちゃクリスチャンじゃねーんだから」
まさにそんな感じだった。
でも日曜学校に通っていたからクリスマスが何であるのかは知っていたけど・・・
高校を出て都会へ行くとクリスマスの過ごし方は激変した。
世間がなんどこんなに浮かれているのかも不思議だった。
でもそんな風潮に慣れてしまっていた。
田舎では子供の居なくなった家で毎年繰り返される農繁期を過ごして居たのだろう。
でもいつの頃からか父一人での農作業にも限界があり、農園の規模は自然に縮小されていった。
学生の頃は学業でクリスマスどころではなかった。一応寮では小さいケーキは出されたが・・
社会人なって人並みのクリスマスが送れるようになっていたはずなのだが・・・
思えば現場で仕事していた事が多く、ホテルの部屋はシングルルームをにわかダブルルームに改装したり・・・
「今日はホテル全体が揺れるんじゃねーか?」
そんな軽口とチェックインに訪れるカップルを陰口をフロントの裏でヒソヒソやっていたものである。
宴会事務所に居た頃は、クリスマスだからといってベーカー(ホテルの中でパンを焼いたりケーキを作ったりするパティシェの居る部署)からケーキが配られる。
でも会社には表立ってナイショの振る舞いだからケーキもブライダル用のバカデカイ50人前とかの奴だ、それをサービスの黒服が来てチャッチャと切り分けてホテルのあちこちに配るのだ。
当然全部が綺麗に無くなる訳でもなく・・・
「もう食えねーよ」「気持ち悪いよ」
ショートケーキ換算で5-6個も食べればもう十分なのだ。
2008年12月25日
スイッチを切ってくれぇぇ

誰かが「冷凍」のスイッチをオンにしているから、朝目覚めるといろんなモノが凍ってる。
クルマも水も土も凍ってる。

「冷房を入れてくれ!!」
確かに夏にはそう叫んだ。
「そろそろクーラーは止めようよ」
秋にはそう言ったかもしれない。
だからといって冷凍庫モードにしなくたっていいじゃん・・・
冷たい空気が肺に突き刺さる。

やぎーず達も暖かい陽の当たる場所を見つけて暖を取っている。
冷凍庫のタイマーは動き始めたばかり、まだ当分は冷凍庫モードのままですね。
2008年12月25日
イブに忘年会
クリスマスイブ、表では派手に花火が打ち上がっている様ですがワタシは竹瓦横丁で忘年会です。
じゃん公でもおなじみの「よんよん師匠」幹事で別府八湯MLの忘年会が竹瓦温泉前のTAKEYA、サロン岸、ムクムクの3件つながりで開催されました。
私なんぞはこっちの縁からじゃん公へ波及した一員です。
老若男女のメンバーのうちじゃん公ブロガーさんもかなりの数です、でも皆さんあまりプログUPされていませんねぇ(^-^;)
久々にお会いする方も多かったですが私にとっていつもお世話になっている方々ばかりです。
ある方と話していていつも話題に出るのは
「最近の若い奴は同世代ばかりとつるんで、上下関係の中で酒を飲む奴、飲める奴が少ない」
です。
事業をやっていると、わざわざ会費を払って「異業種交流会」なるものに参加したりする事もありますが、これらの集まりは地域を活性化させようという人達の集まり、皆異業種です。しかもタダです(飲食代は掛かりますが)
観光あり福祉あり、農家の方から大学教授までとても幅広く別府を愛する人達が集まります。
様々な話や意見を聞く事が出来、とても有益だと感じています。
結局最後には人と人なんですよねー。
もっともっと若い人たちにも参加してもらいたいですね。
もちろんじゃん公にも・・・ホント30代以下少ないですもんねぇ
じゃん公でもおなじみの「よんよん師匠」幹事で別府八湯MLの忘年会が竹瓦温泉前のTAKEYA、サロン岸、ムクムクの3件つながりで開催されました。
私なんぞはこっちの縁からじゃん公へ波及した一員です。
老若男女のメンバーのうちじゃん公ブロガーさんもかなりの数です、でも皆さんあまりプログUPされていませんねぇ(^-^;)
久々にお会いする方も多かったですが私にとっていつもお世話になっている方々ばかりです。
ある方と話していていつも話題に出るのは
「最近の若い奴は同世代ばかりとつるんで、上下関係の中で酒を飲む奴、飲める奴が少ない」
です。
事業をやっていると、わざわざ会費を払って「異業種交流会」なるものに参加したりする事もありますが、これらの集まりは地域を活性化させようという人達の集まり、皆異業種です。しかもタダです(飲食代は掛かりますが)
観光あり福祉あり、農家の方から大学教授までとても幅広く別府を愛する人達が集まります。
様々な話や意見を聞く事が出来、とても有益だと感じています。
結局最後には人と人なんですよねー。
もっともっと若い人たちにも参加してもらいたいですね。
もちろんじゃん公にも・・・ホント30代以下少ないですもんねぇ
2008年12月21日
も、もう少しだ・・
えー殺人的スケジュールをこなしている最中のペーターです。
今日も仕事でした、この雨の中・・・
前津江町まで出向いて薪ストーブ取り付けしてきました。
ついさっき帰って来たところです。
まぁステン板製の安いストーブですが、煙突を付けて最初の火をつけると室内は瞬く間に暖かくなります。
お客さんの顔も自然と緩やかに・・・
その様子は「薪ストーブのある暮らし」にアップします。
まだまだ年内にこなさないといけない仕事が数件残っていますが、この案件が処理できたところでかなり肩が軽くなりました。不景気風が吹きまくる年の瀬ですが、沢山の仕事を頂いてありがたいことですね。
今年も残すところあと僅か、ラストスパートで仕事を片付けて乗り切りたいところです。
そして正月はゆっくりと酔っ払おう!!
今日も仕事でした、この雨の中・・・
前津江町まで出向いて薪ストーブ取り付けしてきました。
ついさっき帰って来たところです。
まぁステン板製の安いストーブですが、煙突を付けて最初の火をつけると室内は瞬く間に暖かくなります。
お客さんの顔も自然と緩やかに・・・
その様子は「薪ストーブのある暮らし」にアップします。
まだまだ年内にこなさないといけない仕事が数件残っていますが、この案件が処理できたところでかなり肩が軽くなりました。不景気風が吹きまくる年の瀬ですが、沢山の仕事を頂いてありがたいことですね。
今年も残すところあと僅か、ラストスパートで仕事を片付けて乗り切りたいところです。
そして正月はゆっくりと酔っ払おう!!
2008年12月20日
進化した?
じゃん公も進化しよんやなー
画像付き投稿を連続して行なっても、トップにサムネイル表示されるのは最新の一度だけ。
つまり
もう単独ジャックは出来ない?
ついでに・・・
どーでもいい〇〇〇〇画像とかも止めてもらいたいんだが・・・
画像付き投稿を連続して行なっても、トップにサムネイル表示されるのは最新の一度だけ。
つまり
もう単独ジャックは出来ない?
ついでに・・・
どーでもいい〇〇〇〇画像とかも止めてもらいたいんだが・・・
2008年12月20日
覚えているうちに残しておこう
目が覚めると見慣れない風景だった・・・
アレ?ここはどこだ?
一瞬そんな感じだった、すぐに自分の置かれている状況を思い出した。
僕は今たった一人でオーストラリアのケアンズにあるカサベラバックパッカーズのドミトリーに居るのだ。
昨夜遅く、成田からの直行便でケアンズに着いた。
僕が最初にやったことは空港内の売店で小額の買い物をトラベラーズチェックで済ませ、OZ$の現金を入手することだった。
そして公衆電話で予め狙っていたカサベラバックパッカーズに電話
「今夜空き部屋はありますか?」
「skla;eipdowekdls;k・・・」
何言っているのかよく分からないけど、取り敢えずOKみたいだ。
僕はタクシーに乗って宿に向かった・・・
バックパッカーズに泊まる事も、ドミトリーに入ることも全ては初めての体験だ。
海外は学生の卒業旅行でヨーロッパ、そして姉の結婚式でハワイには行った事があった。
でも単身での渡航は初めてだ。
30歳を意識するようになって色々と人生を考えた。
僕は田舎の育ち、高校は進学校だったが成績は下から数える方が早かった。
大学受験に失敗し、親との確執もあって東京の経理専門学校へ進学した。
時はバブル真っ最中、就職は掃いて捨てるほどあった・・・大学へ進学した同期達が2年後に就活した時は既に氷河期であったが・・・
東京でお世話になっていた方の紹介もあり、僕は全く知らない会社だった「地産」という会社に入社した。当時は日本全国でホテルやゴルフ場、不動産事業にリゾート、子会社も沢山ありちょっとしたコングロマリットを形成していた企業グループの親会社である。
当時僕はホテルマンを目指していた、その理由は仕事を聞かれて「ホテルマン」と応えれば響きが格好いいからという単純なものだった。
バブル全盛期とは言え、学歴社会である。学校で最優秀クラスは第一勧銀(現みずほ)とか山一證券、三洋証券などが就職先だったが専門卒の僕が入っても出世において大卒の連中を追い越すことは不可能とされる会社ばかりだった。
地産を選んだのは実力主義で成長途上の企業、学歴関係無しというところだった。
同期入社は150人位だっただろうか?うちホテル事業部は38人だった。
新入社員研修を終え、配属希望の時僕はどこでも良いとした。結果僕は38人中男2女2の本社勤務を命ぜられ、原宿明治通りにあった会社へ通うサラリーマンの日々がスタートした。
町田の寮から会社まで約2時間、新人は7時半(始業8時半)出社で全員の机拭きとお茶汲みを毎日だ。
仕事は会社の主計課や財務課とホテルの現場を繋ぐ経理関係の事務職だ。
本社配属の同期は何人も居たが、早い奴は3ヶ月で辞めた。
本社なので全国の事業所から電話が掛かって来る、しかも観光事業本部ホテル部とゴルフ部は同じシマなので電話も受けなくてはならない。
全ホテルの支配人と副支配人、そして全ゴルフ場のマスターとサブマスターの名前を覚えるまで電話は取らせてもらえなかった。
僕らの時代はそうやって鍛えられ、仕事を覚える前に覚えなくてはならないことが沢山あった。
やがて本部の仕事にも一通り慣れた頃、上司の勧めで僕は地元?松山で開業したばかりの現場に出た。鬼の支配人と恐れられた人の下で、更に鍛えていただいた。
鬼の支配人が先に転勤となり、次期支配人が赴任して来た。時代はバブルもはじけてどうしようもない時代、業績悪化に苦しむ会社。先行きの見えない会社に見切りをつけて入社3年で辞めた。
その後しばらくしてその会社は倒産した。
会社を辞めた僕は再び上京、ホテルの求人情報で2社から内定を貰い新規開業スタッフとして三井ガーデンホテル蒲田にもぐりこんだ。現場経理の仕事だったが程なくして本社経理へ移動、本社では親会社から出向して来ている人達と一緒に仕事をした。皆最高学府を出た優秀な人ばかりだ。もの凄く影響を受けた・・・発想が違う、実行力が違う、飲み方が・遊び方が違う・・・人種が違った。
三井不動産、日本の2トップの会社の実力をまざまざと見た。そして彼らから見た我々子会社孫会社というものも・・・
地産では会社が住まいを保証してくれた、三井とは言え孫会社にそんな余力は無い、東京で全生活費自己負担はキツかった。当時僕は車も持っていたから家賃と駐車場と生活費で給料は消えた。
人間関係もいろいろあり、希望の仕事も出来たり出来なかったり。
営業企画の仕事をしていた頃にはホテル全般の事をほぼ把握出切るようになっていた。PCのハードソフトと操作に強かった僕はどのセクションでも割と重宝がってもらった。
何時の間にか社内のPC管理者扱いで・・・それが僕にいろんな仕事と人間関係をもたらしてくれた。
同時に不幸も・・・
様々な不満を爆発させるのは簡単だった。
生かさぬよう、殺さぬように仕組まれているレールの上から逃げることにした。
そのきっかけは旅への憧れだった。
同僚達と北海道へツーリングに行った。日本では2日もあれば東京から稚内へ行ける。
走っても走っても目的地は尚遠い、そんな旅をしてみたかった。日常を離れ誰にも指示されず自分の思うままに旅をする、人生は一度きり、今やらなくて何時出来るんだ?
そんな想いが日に日に増して・・・1999年僕は実行した。
最初に考えたのはカナダ-アラスカを流れるユーコン川をカヌーで下るという旅だった。
でも季節は冬、ユーコンは凍りの世界だった。
南半球なら夏だ、そしてオーストラリアも英語圏だ、バイクで旅している奴は大勢居る、インターネットで見つけた旅日記の奴にメールを送りつけ会った。
帰国後にIT関係の会社を始めていた彼は「オレのHPを見て会いに来た奴は始めてだ」と大笑いした。
情報は揃った、期も熟した、あとは資金だ。
年末年始の宅配便の臨時バイトで資金を稼いだ。早朝から深夜まで荷物を配りまくった。
旅に出ている間のアパートの家賃も稼いでおかなくてはならなかったのだ。
そして1月・・・遂に僕は成田空港からオーストラリアに旅立った。
ケアンズの町は小さい、取り敢えず宿には一週間分のベッドを確保して町ブラして情報収集。
最初にやる事はバイクを買うことだったがそもそもバイク屋が少ない、そして高い。
OZではお店でモノを買うより、新聞に沢山出ている個人売買が盛ん、そこで少し時間をかけて探そうとベースを求めた。当時ケアンズのwater.st60に60`Sというシェアハウスがありそこへ潜り込んだ。
ここは日本人ワーホリのダイバーやバイカーが集まる場所でもあり、特に正月にケープヨークへ行くバイカー達のマシン整備基地みたいなとこだったのだ。
結局バイクは店で買った、古いスズキのGSX750E。脚は出来た、ヘルメットやキャンプ道具などは日本から持ってきてある、これで旅にでる準備はほぼ揃った・・・しかし・・・
僕は一時帰国しなきゃならない用があった。
ケアンズをベースに300kほど南下したミッションビーチにキャンプに行った。
OZではほぼどんな街にもキャンプ場があり皆利用している。
ここでは身の安全が約束されトイレや炊事場、シャワーの施設があるのだ。
ミッションビーチはとても綺麗だった、しかし殺人クラゲが出ているので遊泳はセーフティネットで仕切られた限られたエリアでしか出来なかった。
広い広いビーチの波打ち際でサッカーをやっている二人が居た。近付くと二人とも全裸だった・・・
ゲイだ・・・丁度シドニーでゲイ&レズビアンパレードがもうすぐあるのだ・・・
キャンプから戻ると60`Sにライダーが来ていた。
トオルとの出会いだった、タメ年で奴はシドニースタートでラウンド、2/3周してケアンズに来たら僕がミッションビーチへ行った後だったとか・・・
トオルはこれからシドニーへ戻り装備を売却して帰国、僕は用事を済ませに帰国してから南下スタート
シドニーでの再会を誓って僕は帰国した。
トオルは東京でバーを経営している。大学を出ていろいろやったが佐川急便で資金を貯めてバーを始めた、経営も順調に伸びて人も雇えるようになった。そこでOZラウンドに出かけて来たという、既にアメリカをR66で横断しているという。似たような奴はどこにでも居るものだ・・・
帰国して一週間、僕は再びケアンズに戻ってきた。
ビーサンにカバン1つという出で立ちは入国審査官も驚いていた。
60`sに預けていたバイクに装備を積み込み、シドニー、そして大陸一周を目指してBluceHWYを南下し始めた。
アレ?ここはどこだ?
一瞬そんな感じだった、すぐに自分の置かれている状況を思い出した。
僕は今たった一人でオーストラリアのケアンズにあるカサベラバックパッカーズのドミトリーに居るのだ。
昨夜遅く、成田からの直行便でケアンズに着いた。
僕が最初にやったことは空港内の売店で小額の買い物をトラベラーズチェックで済ませ、OZ$の現金を入手することだった。
そして公衆電話で予め狙っていたカサベラバックパッカーズに電話
「今夜空き部屋はありますか?」
「skla;eipdowekdls;k・・・」
何言っているのかよく分からないけど、取り敢えずOKみたいだ。
僕はタクシーに乗って宿に向かった・・・
バックパッカーズに泊まる事も、ドミトリーに入ることも全ては初めての体験だ。
海外は学生の卒業旅行でヨーロッパ、そして姉の結婚式でハワイには行った事があった。
でも単身での渡航は初めてだ。
30歳を意識するようになって色々と人生を考えた。
僕は田舎の育ち、高校は進学校だったが成績は下から数える方が早かった。
大学受験に失敗し、親との確執もあって東京の経理専門学校へ進学した。
時はバブル真っ最中、就職は掃いて捨てるほどあった・・・大学へ進学した同期達が2年後に就活した時は既に氷河期であったが・・・
東京でお世話になっていた方の紹介もあり、僕は全く知らない会社だった「地産」という会社に入社した。当時は日本全国でホテルやゴルフ場、不動産事業にリゾート、子会社も沢山ありちょっとしたコングロマリットを形成していた企業グループの親会社である。
当時僕はホテルマンを目指していた、その理由は仕事を聞かれて「ホテルマン」と応えれば響きが格好いいからという単純なものだった。
バブル全盛期とは言え、学歴社会である。学校で最優秀クラスは第一勧銀(現みずほ)とか山一證券、三洋証券などが就職先だったが専門卒の僕が入っても出世において大卒の連中を追い越すことは不可能とされる会社ばかりだった。
地産を選んだのは実力主義で成長途上の企業、学歴関係無しというところだった。
同期入社は150人位だっただろうか?うちホテル事業部は38人だった。
新入社員研修を終え、配属希望の時僕はどこでも良いとした。結果僕は38人中男2女2の本社勤務を命ぜられ、原宿明治通りにあった会社へ通うサラリーマンの日々がスタートした。
町田の寮から会社まで約2時間、新人は7時半(始業8時半)出社で全員の机拭きとお茶汲みを毎日だ。
仕事は会社の主計課や財務課とホテルの現場を繋ぐ経理関係の事務職だ。
本社配属の同期は何人も居たが、早い奴は3ヶ月で辞めた。
本社なので全国の事業所から電話が掛かって来る、しかも観光事業本部ホテル部とゴルフ部は同じシマなので電話も受けなくてはならない。
全ホテルの支配人と副支配人、そして全ゴルフ場のマスターとサブマスターの名前を覚えるまで電話は取らせてもらえなかった。
僕らの時代はそうやって鍛えられ、仕事を覚える前に覚えなくてはならないことが沢山あった。
やがて本部の仕事にも一通り慣れた頃、上司の勧めで僕は地元?松山で開業したばかりの現場に出た。鬼の支配人と恐れられた人の下で、更に鍛えていただいた。
鬼の支配人が先に転勤となり、次期支配人が赴任して来た。時代はバブルもはじけてどうしようもない時代、業績悪化に苦しむ会社。先行きの見えない会社に見切りをつけて入社3年で辞めた。
その後しばらくしてその会社は倒産した。
会社を辞めた僕は再び上京、ホテルの求人情報で2社から内定を貰い新規開業スタッフとして三井ガーデンホテル蒲田にもぐりこんだ。現場経理の仕事だったが程なくして本社経理へ移動、本社では親会社から出向して来ている人達と一緒に仕事をした。皆最高学府を出た優秀な人ばかりだ。もの凄く影響を受けた・・・発想が違う、実行力が違う、飲み方が・遊び方が違う・・・人種が違った。
三井不動産、日本の2トップの会社の実力をまざまざと見た。そして彼らから見た我々子会社孫会社というものも・・・
地産では会社が住まいを保証してくれた、三井とは言え孫会社にそんな余力は無い、東京で全生活費自己負担はキツかった。当時僕は車も持っていたから家賃と駐車場と生活費で給料は消えた。
人間関係もいろいろあり、希望の仕事も出来たり出来なかったり。
営業企画の仕事をしていた頃にはホテル全般の事をほぼ把握出切るようになっていた。PCのハードソフトと操作に強かった僕はどのセクションでも割と重宝がってもらった。
何時の間にか社内のPC管理者扱いで・・・それが僕にいろんな仕事と人間関係をもたらしてくれた。
同時に不幸も・・・
様々な不満を爆発させるのは簡単だった。
生かさぬよう、殺さぬように仕組まれているレールの上から逃げることにした。
そのきっかけは旅への憧れだった。
同僚達と北海道へツーリングに行った。日本では2日もあれば東京から稚内へ行ける。
走っても走っても目的地は尚遠い、そんな旅をしてみたかった。日常を離れ誰にも指示されず自分の思うままに旅をする、人生は一度きり、今やらなくて何時出来るんだ?
そんな想いが日に日に増して・・・1999年僕は実行した。
最初に考えたのはカナダ-アラスカを流れるユーコン川をカヌーで下るという旅だった。
でも季節は冬、ユーコンは凍りの世界だった。
南半球なら夏だ、そしてオーストラリアも英語圏だ、バイクで旅している奴は大勢居る、インターネットで見つけた旅日記の奴にメールを送りつけ会った。
帰国後にIT関係の会社を始めていた彼は「オレのHPを見て会いに来た奴は始めてだ」と大笑いした。
情報は揃った、期も熟した、あとは資金だ。
年末年始の宅配便の臨時バイトで資金を稼いだ。早朝から深夜まで荷物を配りまくった。
旅に出ている間のアパートの家賃も稼いでおかなくてはならなかったのだ。
そして1月・・・遂に僕は成田空港からオーストラリアに旅立った。
ケアンズの町は小さい、取り敢えず宿には一週間分のベッドを確保して町ブラして情報収集。
最初にやる事はバイクを買うことだったがそもそもバイク屋が少ない、そして高い。
OZではお店でモノを買うより、新聞に沢山出ている個人売買が盛ん、そこで少し時間をかけて探そうとベースを求めた。当時ケアンズのwater.st60に60`Sというシェアハウスがありそこへ潜り込んだ。
ここは日本人ワーホリのダイバーやバイカーが集まる場所でもあり、特に正月にケープヨークへ行くバイカー達のマシン整備基地みたいなとこだったのだ。
結局バイクは店で買った、古いスズキのGSX750E。脚は出来た、ヘルメットやキャンプ道具などは日本から持ってきてある、これで旅にでる準備はほぼ揃った・・・しかし・・・
僕は一時帰国しなきゃならない用があった。
ケアンズをベースに300kほど南下したミッションビーチにキャンプに行った。
OZではほぼどんな街にもキャンプ場があり皆利用している。
ここでは身の安全が約束されトイレや炊事場、シャワーの施設があるのだ。
ミッションビーチはとても綺麗だった、しかし殺人クラゲが出ているので遊泳はセーフティネットで仕切られた限られたエリアでしか出来なかった。
広い広いビーチの波打ち際でサッカーをやっている二人が居た。近付くと二人とも全裸だった・・・
ゲイだ・・・丁度シドニーでゲイ&レズビアンパレードがもうすぐあるのだ・・・
キャンプから戻ると60`Sにライダーが来ていた。
トオルとの出会いだった、タメ年で奴はシドニースタートでラウンド、2/3周してケアンズに来たら僕がミッションビーチへ行った後だったとか・・・
トオルはこれからシドニーへ戻り装備を売却して帰国、僕は用事を済ませに帰国してから南下スタート
シドニーでの再会を誓って僕は帰国した。
トオルは東京でバーを経営している。大学を出ていろいろやったが佐川急便で資金を貯めてバーを始めた、経営も順調に伸びて人も雇えるようになった。そこでOZラウンドに出かけて来たという、既にアメリカをR66で横断しているという。似たような奴はどこにでも居るものだ・・・
帰国して一週間、僕は再びケアンズに戻ってきた。
ビーサンにカバン1つという出で立ちは入国審査官も驚いていた。
60`sに預けていたバイクに装備を積み込み、シドニー、そして大陸一周を目指してBluceHWYを南下し始めた。
2008年12月20日
冬の朝

家の玄関を出ると目に映るのがこの風景
正面彼方に鶴見岳と由布岳の山頂が・・・
この季節は朝外に出ると、皮膚を突き刺すような寒気と共に鮮明に見える稜線。
夏場だと霞んでぼやけているのですが・・
特に寒い日にはブログヘッダーに使用しているこの絶景を見ながら仕事に出かけることになります。
遠くまで鮮明に見える風景は、寒さに対してお釣をもらったようなリッチな気分になります。
場所によっては遠く四国山地の稜線まで見えますからね。
日の出から少し経った頃が見頃です、明けの口も幻想的ですよ。


日の出から直に我が家は日が差し込み始めます。
すると丸くなっていたわんこーず達も、やぎーず達も夜露に濡れていたり霜で凍っている場所を避け、乾いている場所で横になって体を温め始めます。
実に気持ち良さそうにしているんですよ。
寒さを愉しむ
これが山暮らしをエンジョイする秘訣なのかもしれません。
朝起きた時でも家の中はストーブの残り火でほんのり暖かいですからね。
2008年12月18日
忙しい最中に・・・
まぁ自分でも「ナンデコンナニイソガシイノ?」と突っ込み入れたくなるほどテンテコマイ中です。
もうずっと「休みなし」が続いており年末ギリギリまで続きそうです。
いやはや嬉しい悲鳴ですが仕事はキッチリやり遂げなくてはなりません。
そんな忙しい最中に余計なモノが・・・
「車検」です。
流石にこれは受けなくてはならないのでクルマを車検に出しました。
足がないと仕事にも行けないので代車を借りています。
代車なので余りムチャしたくないのですが、仕事なので道具満載で走り回ってます。
いや慣れないクルマだとやっぱ運転すると疲れます。
予定ではそこそこ儲かって車も新調・・・
だったのですが、新築契約獲得ゼロでは車を買っている場合ではありません。
カミさんの車のローンもまだ残っているし・・・
11年目22万キロ突破の車体にムチ打ってあと2年は働いてもらいます。
一度載せ換えられているだけあって(何万キロで載せ換えたかは定かでない)エンジンは調子良いです。
ただ雪国で使われていたクルマなので車体のあちこちにボロが来ています。
ブレーキローターは2年前に全部交換(普通交換しないパーツ)してますからね。
5ナンバーサイズのボディに2.5LのNAエンジン載せてあるので3ナンバー、税金も安くはありません。
2000cc5ナンバーのキビキビ走るワゴンが欲しいところですが、ガソリンも随分と価格崩壊してくれたのでまぁいっかと・・・。
あんなド派手なクルマはOBSのトピッカー位、広告予算の乏しいウチには走る広告塔で丁度良い。

現在はちょっとだけ仕様が変わっていますが・・・
ソニックに乗車していた友人が別大を走っていたこのクルマを簡単に見つけられたという逸話もある派手さです。
コレ実は長野オリンピックの時のオフィシャルカーなんです。
アルペンスキーチームとありますが、オリンピックの際にフィンランドのアルペンスキーの選手達が選手村から競技会場への送迎等に使われていた車両なんです。
いろいろあってオリンピック終了後に民間へ払い下げられ、大半はデカール(ステッカーの事)をはがして普通の姿に戻されたのですが、一部は当時のままで・・・
さあ25万キロ目指して頑張るぞー
もうずっと「休みなし」が続いており年末ギリギリまで続きそうです。
いやはや嬉しい悲鳴ですが仕事はキッチリやり遂げなくてはなりません。
そんな忙しい最中に余計なモノが・・・
「車検」です。
流石にこれは受けなくてはならないのでクルマを車検に出しました。
足がないと仕事にも行けないので代車を借りています。
代車なので余りムチャしたくないのですが、仕事なので道具満載で走り回ってます。
いや慣れないクルマだとやっぱ運転すると疲れます。
予定ではそこそこ儲かって車も新調・・・
だったのですが、新築契約獲得ゼロでは車を買っている場合ではありません。
カミさんの車のローンもまだ残っているし・・・
11年目22万キロ突破の車体にムチ打ってあと2年は働いてもらいます。
一度載せ換えられているだけあって(何万キロで載せ換えたかは定かでない)エンジンは調子良いです。
ただ雪国で使われていたクルマなので車体のあちこちにボロが来ています。
ブレーキローターは2年前に全部交換(普通交換しないパーツ)してますからね。
5ナンバーサイズのボディに2.5LのNAエンジン載せてあるので3ナンバー、税金も安くはありません。
2000cc5ナンバーのキビキビ走るワゴンが欲しいところですが、ガソリンも随分と価格崩壊してくれたのでまぁいっかと・・・。
あんなド派手なクルマはOBSのトピッカー位、広告予算の乏しいウチには走る広告塔で丁度良い。

現在はちょっとだけ仕様が変わっていますが・・・
ソニックに乗車していた友人が別大を走っていたこのクルマを簡単に見つけられたという逸話もある派手さです。
コレ実は長野オリンピックの時のオフィシャルカーなんです。
アルペンスキーチームとありますが、オリンピックの際にフィンランドのアルペンスキーの選手達が選手村から競技会場への送迎等に使われていた車両なんです。
いろいろあってオリンピック終了後に民間へ払い下げられ、大半はデカール(ステッカーの事)をはがして普通の姿に戻されたのですが、一部は当時のままで・・・
さあ25万キロ目指して頑張るぞー
2008年12月17日
どことなーく・・・

どことなーく・・
新庄と野口健を足して二で割ったようなカオ・・

こ奴らは木登りが得意です。
大好きなのかも・・・
木の葉はよく食べます。

ホラ、ちゃんと木によじ登っているでしょ?

ユキ、お前もかよっ
子供が真似するでしょ?
えっ?
お手本だって?
2008年12月15日
カヌーショップなんぞ始めようかと・・・

諸々ございましてカヌー並びにカヌー用品の取扱を始めることとなりました。
最初は無店舗販売より始めます。
まぁそんなにポンポン売れる商材ではございませんのでボチボチやっていきたいと思います。
現在薪ストーブが鎮座しているミニログが空いたらそこへ少し展示したいと思います。
薪ストーブのショールーム用のログは何時になったら完成するのだろうか・・・
一応場所は確保してあるし基礎も出来ている・・・
主にアオキカヌーワークスさん取扱の商品となりますが、逐次リクエストに応えて広げていきたいと思います。
余りビジネスチックにやるつもりはないので
なんでん安く放出します
のでこんなモノが欲しい、という方はご連絡ください。
現在ウチで取り扱っているもの、取り扱えるもの・・・
ログキット
木用塗料、ティックリラ・オスモ・プラネット
キッチンやユニットバス、トイレなどの住宅設備機器
住宅資材全般
照明器具
ベッド・・・ホテル用・・・
厨房用品あれこれ
薪ストーブと関連品
薪
自動車部品・・・
安いタイヤ
チェンソーや斧、チェーンとかオイルとか・・
カヌー及びパドルやライフジャケット・ヘルメット等
いろいろ広がってきたなぁ
2008年12月14日
日本人F1パイロット
今年の4月、資金難によりスーパーアグリF1チームが撤退
そして世界的な金融恐慌による販売不振でホンダF1チームも撤退
300億近い莫大な予算を必要とするF1トップチームにおいても、そのコスト削減は避けて通れない。
そんな中で来シーズンのF1でシートを獲得できる日本人は何人か?
トヨタエンジンを積むウイリアムズチームの中嶋一貴は既に決定
そして二人目になれるか佐藤琢磨
琢磨はスクーデリアトロロッソのテストを3回受けており、有力候補の一人
トロロッソは現在GP2ドライバーりセバスチャン・ブエミの起用がほぼ決定とされており残すシートはあと1つ
ホンダのバトンがかっさらう?との下馬評もあったが、バトンは売却されるチームと運命を共にするらしい・・・多分プロドライブが買ってそこから出るつもりなのだろう。
トロロッソは今年のセカンドドライバー、セバスチャン・ブルデーと佐藤琢磨の二人にほぼ絞られているらしく、より多くのスポンサー資金を引っ張ってきた方にシート獲得と言われ始めた。
トロロッソはレッドブル傘下であり、日本の佐藤琢磨を起用することは、レッドブルエナジードリンクの販売促進に大いに役立ち、今はなかなか売れていないレッドブルを日本で爆発的に売る大きなチャンスだ。
レッドブル・エナジードリンクは一部のコンビニで売られています。250mlで240円位か?
そもそも日本のリポビタンみたいな健康ドリンクです。
かつてはキャノン、東芝、NTT、EPSONなどの大手企業がF1のスポンサーとして出ていました。
パナソニックはトヨタをスポンサードしていますが今日本企業で世界に対してアピールしたい大手ってドコだろう???
ホンダがトロロッソにエンジンサプライなんてことになればそれはそれで面白いんだけど・・・
ホンダがスポンサーに付くとは思えないし・・・
国内メーカー系も業績ダウン中ですからねぇ
そして世界的な金融恐慌による販売不振でホンダF1チームも撤退
300億近い莫大な予算を必要とするF1トップチームにおいても、そのコスト削減は避けて通れない。
そんな中で来シーズンのF1でシートを獲得できる日本人は何人か?
トヨタエンジンを積むウイリアムズチームの中嶋一貴は既に決定
そして二人目になれるか佐藤琢磨
琢磨はスクーデリアトロロッソのテストを3回受けており、有力候補の一人
トロロッソは現在GP2ドライバーりセバスチャン・ブエミの起用がほぼ決定とされており残すシートはあと1つ
ホンダのバトンがかっさらう?との下馬評もあったが、バトンは売却されるチームと運命を共にするらしい・・・多分プロドライブが買ってそこから出るつもりなのだろう。
トロロッソは今年のセカンドドライバー、セバスチャン・ブルデーと佐藤琢磨の二人にほぼ絞られているらしく、より多くのスポンサー資金を引っ張ってきた方にシート獲得と言われ始めた。
トロロッソはレッドブル傘下であり、日本の佐藤琢磨を起用することは、レッドブルエナジードリンクの販売促進に大いに役立ち、今はなかなか売れていないレッドブルを日本で爆発的に売る大きなチャンスだ。
レッドブル・エナジードリンクは一部のコンビニで売られています。250mlで240円位か?
そもそも日本のリポビタンみたいな健康ドリンクです。
かつてはキャノン、東芝、NTT、EPSONなどの大手企業がF1のスポンサーとして出ていました。
パナソニックはトヨタをスポンサードしていますが今日本企業で世界に対してアピールしたい大手ってドコだろう???
ホンダがトロロッソにエンジンサプライなんてことになればそれはそれで面白いんだけど・・・
ホンダがスポンサーに付くとは思えないし・・・
国内メーカー系も業績ダウン中ですからねぇ
2008年12月14日
正月休みだってよ
ジャン公編集部から正月休みのリリースが出てましたね。
まぁお休みだから休むのは良いんだけど・・・
まさか
サポートをほったらかすって事じゃないよね?
誰か監視はしてるよね?
ネットは24時間365日、ただでさえ重いここの鯖、年末年始になればどんだけのアクセスと投稿が起こるやら・・・
つまりネット社会ではひとつの繁忙期
その繁忙期に担当が監視していないなんてこたぁ無いと思いますが・・・
ここんとこたまに鯖エラで繋がらない事が2-3度あったからなぁ・・・
年末年始で鯖虎を放置していたら
しんけん怒りますよ
とクギを刺しておこう
まぁお休みだから休むのは良いんだけど・・・
まさか
サポートをほったらかすって事じゃないよね?
誰か監視はしてるよね?
ネットは24時間365日、ただでさえ重いここの鯖、年末年始になればどんだけのアクセスと投稿が起こるやら・・・
つまりネット社会ではひとつの繁忙期
その繁忙期に担当が監視していないなんてこたぁ無いと思いますが・・・
ここんとこたまに鯖エラで繋がらない事が2-3度あったからなぁ・・・
年末年始で鯖虎を放置していたら
しんけん怒りますよ
とクギを刺しておこう