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2008年12月26日

クリスマスのおもひで

今日はクリスマスでしたね。
僕はクリスチャンではありません、一応は無宗教者ですが何か宗教を選べと強制されればプロテスタントかなぁ?
これは仕事のブライダル関係の影響と、子供の頃に通っていた教会(っても通っていた幼稚園)と爺さん(以前プログに書いたMBUのキャラハン邸)の影響かナァ?

実家は愛媛西部では典型的なミカン農家だ。
ウチはどちらかと言われれば規模が大きい方だった、父は勢いにまかせてたくさんのミカンを栽培していた。ミカン、甘夏、伊予柑、雑柑いろいろ・・・
ミカンの中でも温州極早生は9月末-10月初旬から収穫が始まる。
そして次に温州ミカンと晩熟ミカンである南柑20号(普通のミカン)なんかの収穫と続く
そして11月位になると甘夏と伊予柑の収穫が始まる。
当時はまだデコポンだのキヨミだのの新しい品種は開発されておらず、専ら「夏みかん(甘夏)」「サンフルーツ(甘夏の改良種)」と「伊予柑」・「宮内伊予柑」の4種が看板だった。
これらは概ね年内に収穫して倉庫で保管して熟成させ、2-3月に出荷するのである。

大体毎年クリスマスの時期には寒波がやって来る。
大分と同じく対岸の愛媛は関門海峡から吹き込む雪の影響で積雪するのだ。
雪が積もると木に実っているミカンは内部が凍結してしまい味が悪くなり商品価値がなくなってしまう、だから甘夏や伊予柑の収穫は寒波との戦いでもある。
なにせ1年の集大成がゴミになるのかお金にばけるのかの瀬戸際だからだ。
この時期は人を雇って収穫するので(雇わないととても間に合わないのだ)朝早く父は人夫さんを迎えに行く、人夫さんはもっと山奥のタバコ農家とかの人たちで大体皆どこの農家へ手伝いに行くのか決まっていた。
日のあるうちはとにかく収穫、とにかく取れるだけ取る、そしてコンテナに入れて道端に積み上げておくのだ。5時になって人夫さん達を送り帰ってきてから今度は山にある収穫されたミカンを取りに行くのだ。
離合も困難な狭い道を2トントラックで登り、大体荷台にコンテナ5段積で満載して持ち帰る。
多い時は一日にトラック4車、500箱位収穫しているのだ。
伊予柑や甘夏は長期保管するので薬に浸けてからの保管となる、つまり山から持ち帰った奴を農薬の入った桶にドブ漬けし、それを倉庫へ積み上げるという作業が夕方以降に待っている。
日が落ちて寒風吹きすさむ中で薬品の溶かされた水仕事である。
小学校高学年になる頃には手伝いもしていたが中坊でも半人前の仕事しか出来なかった。
農薬ドブ漬けされたコンテナは20-30キロの重さである、それを数百右から左へ・・・
そのうちに前掛けも意味無く服も濡れてしまい、熱気だけで寒さに対抗して仕事をする、そんな感じだった。遅い日には23時頃まで倉庫でトラックが走り回っているという年もあった。
収穫した分を持ち帰りきれない時もあった。
そしてとにかく寒波の来襲を恐れ、寒波が来る前に1つでも多くのミカンを倉庫へ、そんな感じだった。

公務員として働いていた母も、帰宅してからは倉庫作業の手伝いである。母は仕事から帰ると僕と姉のご飯を作って倉庫へ行く。僕らは二人だけでご飯を食べて風呂に入って寝る、そんな生活だった。
子供心に親を気遣ったのだろう、八時になると暖かい紅茶をいれて倉庫へ持っていくと両親は喜んでくれた事は覚えている。

クリスマスは親戚から貰うアイスケーキと、母方の祖母が毎年送ってくれたチョコレートが唯一の楽しみだった、両親は倉庫で作業しているのを知っていた為か、余りクリスマスを祝った記憶は無い。
出来合いのチキンを温めて申し訳なさそうに僕達に食べさせてくれた思い出がある位だ。
クリスマスプレゼントというのも小学生の頃に何度か貰った程度でカバンを貰って嬉しかった記憶がある位だ。
とにかく12月=農繁期のピークであり、中学高校でも部活から帰ってから作業を手伝う、そんな毎年のクリスマスだった。
地域全体がどこもそんな感じだったから余りクリスマスクリスマスした事がなかったように思う。
「オレたちゃクリスチャンじゃねーんだから」
まさにそんな感じだった。
でも日曜学校に通っていたからクリスマスが何であるのかは知っていたけど・・・

高校を出て都会へ行くとクリスマスの過ごし方は激変した。
世間がなんどこんなに浮かれているのかも不思議だった。
でもそんな風潮に慣れてしまっていた。
田舎では子供の居なくなった家で毎年繰り返される農繁期を過ごして居たのだろう。
でもいつの頃からか父一人での農作業にも限界があり、農園の規模は自然に縮小されていった。

学生の頃は学業でクリスマスどころではなかった。一応寮では小さいケーキは出されたが・・
社会人なって人並みのクリスマスが送れるようになっていたはずなのだが・・・
思えば現場で仕事していた事が多く、ホテルの部屋はシングルルームをにわかダブルルームに改装したり・・・
「今日はホテル全体が揺れるんじゃねーか?」
そんな軽口とチェックインに訪れるカップルを陰口をフロントの裏でヒソヒソやっていたものである。

宴会事務所に居た頃は、クリスマスだからといってベーカー(ホテルの中でパンを焼いたりケーキを作ったりするパティシェの居る部署)からケーキが配られる。
でも会社には表立ってナイショの振る舞いだからケーキもブライダル用のバカデカイ50人前とかの奴だ、それをサービスの黒服が来てチャッチャと切り分けてホテルのあちこちに配るのだ。
当然全部が綺麗に無くなる訳でもなく・・・
「もう食えねーよ」「気持ち悪いよ」
ショートケーキ換算で5-6個も食べればもう十分なのだ。



  

Posted by ペーター at 00:50Comments(7)アラカルト