2009年03月31日

新しい春の事

地元では進学校と言われた高校には通っていたけど、僕は大学受験にことごとく失敗、浪人の道には進まず、受験失敗からの僅かな間で決めた専門学校へ入学する為に上京した。
とにかく東京へ出たかったのだ。
松山や大阪ではなく、東京へ行きたかった。
それは東京が日本の中心に他ならなかったからだ。
同期2000名余のマンモス専門学校、僕の専攻は税理士コース、つまり「経理」だ。
田舎から上京した僕は学校の寮に入った。
4畳半程度の部屋に二段ベッドと机二つ、狭い空間に2人だった。
テレビは食堂にしかなく、先輩たちがチャンネル権を持ち鑑賞時間も決められていた。
部屋にはラジカセか本しかなかった。
二年目は大学生だった姉と2人で学校の隣の賃貸マンションだった。

当時日本はバブル景気に沸いており、超売り手市場、税理士にはなれなかったけど朝から晩まで電卓叩く学生生活で最低限の資格は取った僕にも就職先はいくらでもあった。
正直なところ、就職に際しても「自分が何をしたいのか、何になりたいのか」そんなものは無かった。
ただ一つ「人と違う事をしてみたい」という思いだけだった。
数日考えたある意味場当たり的な結論は
「ホテルマンになろう」だった。
お勤めは?と聞かれて「○○ホテルです」って響きが格好いいやんって・・・そんな安易な選択。
ホテルに就職しよう、そう決めればあとはどこのホテルにするかだ。
当時全盛を極めていたのは西武帝国プリンスホテルグループや藤田観光ワシントンホテルグループとかだった、一流ホテルも良かったけど所詮は専卒の身分、大卒とは差がつくし一つの仕事を何十年も・・・というのは勘弁だった。
友人たちは一流メーカーや三洋証券などバブル系企業に多く就職した。
結局僕は母の友人の紹介もあってCサンという会社に就職した。
Cサンは当時Cサンマンションなど不動産を主体に、全国15コースのゴルフ場と29のホテルチェーン、そして沢山の子会社を傘下に従えたCサングループの本部だ。
完全実力主義を謳い、学歴に関係なく出世できるという会社だった。
原宿表参道に本社ビルを構え、その最上階にあるホールで同期150名位とグループ会社の同期など数百名規模の入社式だった。僕はコナカで買った安物のスーツで社会人になった。
入社式へは叔母の家から向かった、僕は全国どこへでも飛ばされるサラリーマン、姉は大学院に進学して東京に留まる為一緒には住めないはずだったから。
僕も勤務地の希望は「どこでも良い」だった。
入社式を終えると僕らは湘南にあったホテルへバスで移動し、そのまま新入社員研修に突入した。2泊3日の新人研修で様々な事を叩き込まれた。
最終日には各部署ごとに分かれて辞令の交付が行われた。
研修中にも赴任地の希望は募られた、でも僕は「北海道でも九州でもどこにでも行きます」と答えていた、だから当然地方の現場勤務を言い渡されると思っていた。
「ペーター君は本社勤務を命ず」
「ええっ!?」
ビックリしたのは僕の方だ、ホテル部門は同期38名、うち本社は男女4名だけだった、僕はその4名枠に選ばれてしまったのだ。
全体研修の後、ホテル部門研修としてバスで東北道をひた走った、着いたのは郡山だった。
福島県郡山市、郡山の駅前にあるホテルを皮切りに、創業者の地元那須を経て北関東のホテルとゴルフ場を巡って本社へ戻った。
同期が一同に介したのはそれが最後だった。
僕は会社が用意してくれた町田の片隅にある一戸建ての家を独身社宅としてあてがわれ引越しした。
社宅費は5千円だった。
ここで同期で不動産部横浜支店のI君(大卒)と不動産部特別営業部のO君(大卒)と3人で暮らす事になった。O君は全国のマンション分譲セールスの長期出張部隊なのでほとんど家に帰ってこなかった。
彼は大分駅前でCサンマンションを売っていたはずだから、大分には彼を知っている人が居るはずだ。
勤務時間は8時半から5時半、一年生の出社は朝7時から半位で出社したら部署の机拭きと上司達のお茶入れをする決まり。お茶汲みと言っても皆マイカップだしコーヒーブラック・砂糖のみ・砂糖ミルクに紅茶派にお茶派と好みもばらばら、これを暗記しなくてはならないのだ。
大抵エライ人から早く出社して来たものだ。
最寄り駅の田園都市線「つくしの駅」は東名横浜インターに近い場所、電車に乗るのは6時前起床は5時半だった。幸い隣駅から快速の始発があるので座って寝る事は出来た。1時間少々で着く渋谷で下り明治通りを約15分ほど歩いて会社へ通った。
僕は観光事業本部ホテル部の末端社員となり、デスクの島の向かいは観光事業本部ゴルフ部だ。
隣にホテル東京営業部があり、若き営業所長がこの人だった。
同期4人は男女2であり男女1ずつが営業と事務、ゴルフ部にも男女1ずつ同期が居て6人での机拭きとお茶だしの日々が始まった。
電話は大抵が現場からのもの、僕らはイキナリ全てのホテルの店長と副店長、ゴルフ場のマスターとサブマスターの名前を覚える事を求められそれが出来るまで電話を取らせては貰えなかった。
現場のバックアップとしての本社において、現場の責任者の名前も分からないというのは論外とされていた。電話を取りたいけど取らせてもらえない、これはある意味強烈だった。
でも一年後にその事務所に居たのは僕とホテルの予約センターのオペレーターの女の子だけだった。
仕事の中身は全国の事業所と本社とのパイプ役であり、データの取りまとめや集計作業などが主だ。
当然経理系なのでお金も触るし全ホテルの金銭に関わる重要な仕事の一端でもあった。
僕の上司に主任が居て係長と課長2人そして部長2人、隣に営業所長と営業マン6人だっかな?
仕事は多岐に渡ったが基本的に同じ事は3回しか教えてもらえずメモは必須だった。
メモせずチョンボすると係長から笑いながらゲンコツ貰ってた。
後で分かったのだが当時主任はギャンブル系の問題社員だったらしく、仕事の建て直しの為に係長が現場から戻されていてのだが、僕の前任者がどうにも使えないので新人の僕と入れ替えたらしい。
で僕が仕事を覚えた頃、主任は出社しなくなり会社を去った。
僕はその後開業わずかな現場へ異動となり、本社勤務は一年少々だった。
毎週月曜日の朝にはホールで朝礼があり、各部長持ち回りで話があり、社歌を歌う、今時の会社ではそうそうないだろうなぁ。でも社内の結束は固かったように思う。
その間に会社の前で黒い車の大音響の演説を聞く事数回
マルサの査察が入るという貴重な経験を一度
会長逮捕で会社の前にマスコミ黒たかりを一度経験しました。
でもバブル終焉期ながら原宿と渋谷の間に勤めていた訳だからそりゃ当時は凄かった。
専卒なので給料は高くなかったけど、それなりに充実した東京サラリーマン時代第一期だった。

※Cサンは後に民事再生企業となり、その各事業はパラパラに売却されています。
※僕が勤めた本社ビルも既に他社のものとなっています、もう解体されて無いかも?












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Posted by ペーター at 22:59│Comments(0)アラカルト
 
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